仕事運なら福岡現人神社の日誌

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神社の建物はいろいろあるけど、何が違うの?

神社の建物はいろいろあるけど、何が違うの?

神社の建物には、「本殿」「社殿」「拝殿」などなど、さまざまな名称があります。神社の境内に複数の建物が並んでいることも多く、ちょっとややこしいこともありますよね。仕事運のご利益で知られる現人神社の境内にもいくつかの建物があります。

○社殿

社殿とは、神社の御神体を祀る建物を指しています。神社内にはいろんな建物がありますが、すべての建造物を総称して社殿といいます。

 

つまり、御神体をお祀りしている本殿、人々がお参りする拝殿、お供え物をする幣殿、神楽を舞う神楽殿など、すべてが社殿なのです。

○神社の建物の種類

社殿に含まれる建造物の種類をいくつかご紹介しましょう。

 

・本殿……御神体、御祭神をお祀りする建物

・拝殿……参拝者が拝礼をする建物で、一般的に本殿の前にある

・幣殿……神様へのお供え物を納めるための建物

・神楽殿(舞殿)……神楽・舞を奉納する建物

・御饌殿(みけでん)……神様に捧げる食事を準備する建物

・祓殿……心身を清めるお祓いや、ご祈祷を行う建物

直会殿(なおらいでん)……祭祀の後、参拝者や神職が会食をする建物

 

もちろん、すべての神社にこれらの建物がそろっているわけではなく、神社の規模によってさまざまです。

○まとめ

現人神社にお参りする際も、建物の違いに注目するといいかもしれません。仕事運向上ほか、各種ご祈願も承っております。詳細は社務所(092-952-2152)までお問い合わせください。

神社の建築様式の変容

神社の建築様式の変容

仕事運向上で知られる現人神社の現在の神殿は、戦国時代の戦乱により焼失し、江戸時代になって再建されたものです。ところで、神社の建築様式はどのように変化していったのでしょうか。

○文化が融合して多様化していった

古代、奈良時代以前の神社に、現在のような建物はありませんでした。山、岩、木などに神様が宿ると考えられ、祀られていたのです。神社の社殿が建築されるようになったのは奈良時代ごろのことです。

 

出雲神社の「大社造(たいしゃづくり)」や伊勢神宮の「神明造(しんめいづくり)」は日本古来の、純日本式の神社建築様式です。

 

時代が下って神仏習合が進むと、仏教建築の影響が見られる神社建築も増え、また大陸文化の影響も多分に受けつつ、多様化していきました。

○さまざまな神社の建築様式

上記の大社造、神明造といった日本古来の建築様式のほか、住吉造、春日造、八幡造、大鳥造、流造、日吉造、権現造など、多種多様な神社建築が生まれました。

○まとめ

現人神社は、住吉三神を御祭神としてお祀りし、商売繁盛や仕事運のご利益で有名な神社です。各種ご祈願も承っておりますので、ぜひお参りください。

岩屋城の戦いのころ、島津軍はどれくらい強かった?

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岩屋城の戦いのころ、島津軍はどれくらい強かった?

天正14(1586)年、現人神社がある筑前国で、岩屋城を守る高橋紹運が籠城戦の末に敗死しました。一説には、主家を守るため敗れることを覚悟で降伏勧告を断り、籠城に踏み切ったといわれます。命を失う覚悟で臨んだ島津氏との戦い、当時島津氏はどれほど強かったのでしょうか。

○最強といわれた島津氏

一言で言ってしまえば、島津氏は最強でした。島津第15代当主の島津貴久は、島津氏中興の祖といわれる忠良の嫡男で、薩摩を統一した人物です。そして貴久の子は四人合わせて「島津四兄弟」と呼ばれ、全員が優秀で豪傑ぞろいだったのです。このことから、「島津に暗君なし」ともいわれます。

 

義久・義弘・歳久・家久の島津四兄弟の時代は、まさに島津氏の全盛期でした。

○九州北部の大友氏も衰退

最強の島津氏は、九州各地の統一を進め、九州統一を目指しました。九州北部を治める大友宗麟は、天正6(1578)年の耳川の戦いでの敗北以降、徐々に衰退していきました。岩屋城の戦いは、まさに島津氏が九州統一に王手、というところで起こった戦いだったのです。

 

紹運の決死の戦いで九州統一は阻まれましたが、その後も島津氏の力は衰えることがありませんでした。それは、大友宗麟が困り果て、秀吉に九州征伐を嘆願するほどでした。

○まとめ

現人神社も戦いに巻き込まれた岩屋城の戦いが起こった時代、敵対する島津氏はそれほど強かったのです。

戦国時代の「人質」。なぜ武将たちは人質をとったの?

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戦国時代の「人質」。なぜ武将たちは人質をとったの?

戦国時代には、武将の間で人質を送る、交換するということがよく行われました。人質は権力者の婚姻と同じく、政治の一環だったのです。

○約束の保証として送られた人質

人質として送られるのは、だいたい肉親や家臣などの近しい人物です。武将同士の同盟や、戦のあとの降伏・和睦など、「これから仲良くやっていきましょう」という約束の保証として人質がとられました。簡単に約束を反故にされては困るため、人質は近い人物であればあるほど効力をもったのです。

○戦国時代に広く行われた

人質は、古くは神功皇后のころに新羅の王が人質を日本に送ったことが『日本書紀』に記されており、古代から行われていたことがわかります。

 

なかでもとくに盛んに行われたのが戦国時代でした。群雄割拠の戦乱の時代、下剋上もありの世の中でしたから、武将たちも基本的に他人が信じられません。そのため、約束の担保として人質が使われたのです。人質の多くは、武将の子どもたちです。徳川家康も幼少期は織田・今川氏の人質として過ごしました。

○まとめ

戦国時代の人質は、今でいうローンの担保のようなものでした。娘を政略結婚させて相手と強く結びつくという方法もありますが、人質もそれと同じように政治のひとつの方法として広く行われたのです。

「鰹木(かつおぎ)」神社建築の特徴的な部材

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「鰹木(かつおぎ)」神社建築の特徴的な部材

神社の屋根には、交差したX字型の部材「千木(ちぎ)」と同じく、神社建築独特の装飾があります。仕事運向上のご利益で有名な現人神社の御本殿にも千木・鰹木が取り付けられています。

○鰹木とは

屋根の端にあるX字型の千木は、もともと日本古来の住居建築に用いられた構法で、屋根の強度を上げるものでした。クロスした千木の間、棟の上に並ぶ鰹木も、もとは棟の補強として置かれたものです。

○名前の由来

鰹木の名称については、その名のとおり、鰹の形(鰹節)に似ていたからとされています。表記はほかに「堅緒木」「勝男木」などがあります。

○現在は装飾として残る

現代の神社では、ほとんどが装飾的意味合いで取り付けられています。屋根や棟の補強目的で置かれたものでしたが、時代が下ると一時神社建築で用いられなくなりました。それが復活したのが明治時代です。神仏分離神道を重視し、廃仏毀釈を推し進める動きの中で、神社らしさを求めて再び設置されるようになったのです。

○まとめ

お参りの際は建物にも注目してみてください。当宮は仕事運向上の神社として知られ、ご祈願も承っております。社務所(092-952-2152)までお問い合わせください。

神社の灯籠にはどんな役割があるの?

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神社の灯籠にはどんな役割があるの?

神社、寺院、日本庭園などで見られる灯籠は、奈良時代に大陸からもたらされたものでした。神社では、神に奉納する灯明としての役割があります。

○灯籠の伝来

灯籠は火の明かりを守るため囲う道具で、仏教発祥の地・インドでは竹や瓦を用いて作られたといわれますが、日本の神社や寺院などには石灯籠や金属の灯籠が設けられています。奈良時代の初めごろ、百済から渡ってきたと考えられています。

○灯籠の役割

仏教伝来とともに渡ってきて広まった灯籠は、神仏への献灯(神に奉納する灯明)の道具として用いられてきました。

 

神様に供物を奉納するのは、そのご加護を賜るためです。つまり、灯籠に灯をともすことも、神のご加護があることを祈って行われているのです。また、願いが成就したお礼として奉納する灯籠もあります。

○現人神社の灯籠

仕事運向上の神社として親しまれる現人神社は、戦国時代に一度戦火に焼かれ、正徳4(1714)年に領主の黒田靭負重実によって再建されました。その後、天明7(1787)年に黒田斉昭が参詣し、石灯籠を一対寄進されたとの記録が残っています。

○まとめ

商売繁盛、仕事運向上のご祈願は現人神社の社務所(TEL:092-952-2152)までお問い合わせください。

鳥居の色に朱色や白木、黒木など色の違いがあるのはなぜ?

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鳥居の色に朱色や白木、黒木など色の違いがあるのはなぜ?

神社の象徴である鳥居には神社によって形や素材が異なりますが、色にも違いがあります。たとえば仕事運向上で知られる現人神社の鳥居は石造りのものです。

よくイメージされるのは朱色(赤色)だけど?

神社の鳥居といえば、朱塗りのものをイメージするかもしれません。伏見稲荷大社嚴島神社など、全国的に有名な神社に朱塗りの鳥居があるのは確かですが、そればかりではないのです。

○白木・黒木など、素材の色のままの鳥居

例えば、伊勢神宮の鳥居は木材の色をそのまま生かした白木の鳥居です。出雲大社も同様に白木です。また、京都の野宮神社のような鳥居に使う木材の木の皮を剥がさずに用いた黒木鳥居もあります。

 

コンクリートや石造りの鳥居もあります。こちらは木ではありませんが、やはり素材のままの白っぽい色です。

○朱塗りの鳥居

素材の色のままの鳥居がある一方、なぜあえて朱塗りにした鳥居があるのか。これは、朱色(赤色)が魔除けの色と考えられたためです。赤は生命の躍動を意味し、そのため厄除けや魔力に抵抗する色として用いられてきました。彩色には、大陸の建築からの影響もあったようです。

 

また、朱色の塗料(水銀)が防腐剤の役割を持っていたという理由もあります。

○まとめ

現人神社の大鳥居は花崗岩で、正徳4(1714)年に再建されたものです。当宮へお参りの際は、歴史ある大鳥居にもご注目ください。仕事運向上、商売繁盛のご祈願も承っております。