岩屋城の戦いのころ、島津軍はどれくらい強かった?
岩屋城の戦いのころ、島津軍はどれくらい強かった?
天正14(1586)年、現人神社がある筑前国で、岩屋城を守る高橋紹運が籠城戦の末に敗死しました。一説には、主家を守るため敗れることを覚悟で降伏勧告を断り、籠城に踏み切ったといわれます。命を失う覚悟で臨んだ島津氏との戦い、当時島津氏はどれほど強かったのでしょうか。
○最強といわれた島津氏
一言で言ってしまえば、島津氏は最強でした。島津第15代当主の島津貴久は、島津氏中興の祖といわれる忠良の嫡男で、薩摩を統一した人物です。そして貴久の子は四人合わせて「島津四兄弟」と呼ばれ、全員が優秀で豪傑ぞろいだったのです。このことから、「島津に暗君なし」ともいわれます。
義久・義弘・歳久・家久の島津四兄弟の時代は、まさに島津氏の全盛期でした。
○九州北部の大友氏も衰退
最強の島津氏は、九州各地の統一を進め、九州統一を目指しました。九州北部を治める大友宗麟は、天正6(1578)年の耳川の戦いでの敗北以降、徐々に衰退していきました。岩屋城の戦いは、まさに島津氏が九州統一に王手、というところで起こった戦いだったのです。
紹運の決死の戦いで九州統一は阻まれましたが、その後も島津氏の力は衰えることがありませんでした。それは、大友宗麟が困り果て、秀吉に九州征伐を嘆願するほどでした。
○まとめ
現人神社も戦いに巻き込まれた岩屋城の戦いが起こった時代、敵対する島津氏はそれほど強かったのです。