戦国時代の「人質」。なぜ武将たちは人質をとったの?
戦国時代の「人質」。なぜ武将たちは人質をとったの?
戦国時代には、武将の間で人質を送る、交換するということがよく行われました。人質は権力者の婚姻と同じく、政治の一環だったのです。
○約束の保証として送られた人質
人質として送られるのは、だいたい肉親や家臣などの近しい人物です。武将同士の同盟や、戦のあとの降伏・和睦など、「これから仲良くやっていきましょう」という約束の保証として人質がとられました。簡単に約束を反故にされては困るため、人質は近い人物であればあるほど効力をもったのです。
○戦国時代に広く行われた
人質は、古くは神功皇后のころに新羅の王が人質を日本に送ったことが『日本書紀』に記されており、古代から行われていたことがわかります。
なかでもとくに盛んに行われたのが戦国時代でした。群雄割拠の戦乱の時代、下剋上もありの世の中でしたから、武将たちも基本的に他人が信じられません。そのため、約束の担保として人質が使われたのです。人質の多くは、武将の子どもたちです。徳川家康も幼少期は織田・今川氏の人質として過ごしました。
○まとめ
戦国時代の人質は、今でいうローンの担保のようなものでした。娘を政略結婚させて相手と強く結びつくという方法もありますが、人質もそれと同じように政治のひとつの方法として広く行われたのです。